りんかくを そっとなぞって 夕日を見つめていた。放課後になって一時間くらい過ぎているから、教室には誰も居ない。そこを狙って来たのだけれど。 窓際の、一番後ろの席が私の席。机の上に座って夕日を見つめる。 オレンジ色の沈んでいこうとする夕日は、とても綺麗。 今日あった、嫌なことが全て忘れてしまえるような気がするほどに。 開けた窓から入ってくる空気も、ひんやりしている。朝、腫れていた頬には丁度良い。 まだ微かにジーンと痛む右頬は、確かに、今日あったことだと確認させてくれる。 「さん?」 足音が近付いていたのには気付いていたけれど、それを誰だろうと確認する気さえ起きなかった。 どうせ、会いたい人は部活に励んでいて、この外から聞こえてくる声に紛れているものだと思っていたから。 その、会いたいと思っていた人の声が私の名前を呼ぶ。びくりと体が震えてからゆっくりと振り返る。 目に映るものがゆっくりと変わる。 「お、おとりくん…」 声に出した名前。 彼に聞こえていたかはわからない。 けれど、彼はいつものように、にっこりと優しい笑顔を浮かべながら教室に足を踏み入れる。 風が窓から入ってきて、私の髪の毛をすり抜けてから彼の髪をすり抜けていく。 私の目の前で足を止めた彼。じっと私を観ていた。 何も言わずにいれば、彼の右手がスッと伸びてきて、りんかくをなぞる。 そっと、優しく。 今朝まで、腫れていた頬を。 彼の名前をもう一度呼べば、彼はハッとした様子で、謝りながら勢い良く手を引っ込めた。 私はその離された手を、今度は私から掴む。彼の大きな手は、テニスをしているせいか、思っていたよりもマメだらけだった。 その手を、もう一度私の頬に持っていく。彼は焦って私の名前を呼ぶ。 「頬、気になった?」 彼の手を、頬に当てながらその上から自分の手を置く。 薄く目を開いて、彼の手を感じてから、今度は彼をよく見るために目をパチリと開く。 背の高い彼は、机に座っている私の視線よりもはるかに高い。だから必然と、見上げてしまう。 「…はい」 小さく頷いた彼の言葉で、私を心配してくれていたのだと伝わってくる。 ふふっと笑って、私は彼の手を離す。ゆっくりと、彼の手は頬から離れて行く。 触れられたところが、暖かみを失って窓から入る風に冷やされる。 「今日、彼氏と別れてきたの」 「…彼氏、いたんですか」 「うん。知らなかったんだ」 「…はい」 彼は哀しそうに笑う。 「他に好きな人ができたって言ったら、怒っちゃって」 「…え」 「バチーン、と、ね。」 はは、と力なく笑う私とは反対に、彼は眉を寄せて、先ほどまで見せていた笑顔を無くした。 まだ、私が見たことのない顔で、私は一瞬声を失う。 彼の顔を脳裏に焼き付けていく。この顔を忘れないように、と。 「ホントは、学校来るの止めようかと思ったんだけど、なんか、会いたくなっちゃって」 「…誰に、ですか?」 やっと口を開いてくれた彼の声はどこか震えているような気がした。 でもそれは、多分私の気のせいで。彼の問いに、私は悩む。 貴方に、なんて言っていいのかな。私なんかが。 彼につり合うような女じゃないことぐらい、自分でよく分かってる。 こうして一緒に話しができるだけで、私はもう満足で。 鳳君が心配してくれている。だから、彼氏と別れて良かった、ぶたれて良かった、と 今、思ってしまった。 そんな私が、貴方を好きだなんて。言えない。 「…」 「さん」 私が黙ると、外で吹く風の音と、部活をしている人達の声、そして教室の壁にかかっている時計のカチカチという音だけが聞こえる。 その音を無視して彼が私の名前を呼ぶ。 その声は、ハッキリといつもよりも低いものだった。 「さんが好きです」 まるで夢でもみているかのような、非現実的だと思っていた台詞を、彼は力強く言った。 私の体が、温かいのに、寒い日の凍える時のように固まって動けなくなってしまう。 彼の言った言葉が信じきれなくて…でも彼がこんな嘘をつくことのない人だと知っている。 心が、よろこびを感じている。けれど、よろこびの裏にはまだ、信じられないという思いがある。 だから、言わずにはいられなかった。 「…うそ…で、しょう?」 カタカタと肩から先が震える。 右手が左の袖をぎゅっと、震えを止めようと掴む。それでもまだ震えが止まった気がしない。 「俺は嘘はついてません。」 「だ、って…、鳳君、が、…私を?」 ほとんど独り言だった。これをパニックとでも言うのか。 頭の中が整理できていない。 鳳君を見上げているはずなのに、視点が定まらない。 鳳君の後ろに見えるドアにピントがあっていて。 鳳君にピントを合わせられない。 「…やっぱり、迷惑でしたよね」 悲しそうに、眉を寄せて笑う彼。 そんな彼の顔をみて、私は大きく首を横に振る。 混乱している頭がさらに混乱してしまいそうなほど、勢い良く。 髪型が崩れてしまったかもしれない。だけど、それでもいい。 この機会を逃してはいけない。 頭を振ったことで、視点が鳳君にハッキリとむく。 彼の顔がハッキリと見える。 「嬉しい」 「え?」 彼の気の抜けた声が響く。 言いたいことはいっぱいあって、言葉にしようとしたけれど上手く言葉にできない。 なんとか、表さないとと思って彼に笑顔を向ける。 声を出さなくちゃ、出さなくちゃ。 そう思うだけで、声が出てこない。 どうすればいいんだろう、どうしたら彼にこの想いが伝わるのだろう。 大胆、だった。 鳳君の首に腕を回して、彼の頭を少し押して私に近付ける。 少し曲った鳳君の背中。 彼の腕が私の頬を包んで、そっと優しく。 触れるだけのキスをする。 離れた後に、恥ずかしそうに顔を真っ赤にした鳳君。 それが伝染して、私の顔も熱くなっていく。 お互いに顔を真っ赤にして、俯く。 突然、ガラガラッと教室のドアが開く音がして、私達は二人で慌てて視線をドアへ向ける。 開いた扉から、やっと見つけた、と溜息をついて睨み付けるように鳳君を見て彼の名前を呼んだ日吉君。 「いつまで部活サボル気だよ」 「あ…」 「…忘れてたな?」 日吉君が文句を言おうと口を開いた時、鳳君は遮るように私の名前を呼んだ。 ペンと紙を貸してと言われて机から紙を取り出して渡す。 カツカツと白いメモ帳に黒で書かれた文字は、携帯の電話番号とアドレス…そして、彼の鳳長太郎という名前。 「メール、待ってます」 少しだけ戸惑いながら恥ずかしそうに渡してくれる紙を受け取る。 心臓が、ドキドキする。 そのメモ帳を持って、私は言葉ではなく、一度だけ大きく頷く。 それを見て嬉しそうに笑う鳳君。 「それじゃ、明日」 手を振られて振り返す。あっという間に教室を出て見えなくなってしまった。 ゆっくりと持っているメモ帳をもう一度見る。無くさないよう、大事に定期券と一緒にして。 バッグを持って、机を降りた。 空を見つめると、あの綺麗だった夕日は、いつの間にか消えていた。 |